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第48回日本文化塾 講演会

江戸の鷹場と人々のくらし

講師山﨑 久登氏(東京都立新島高等学校教諭)
日時2017年2月18日(土曜日) 14:00〜16:00(13:30開場)
会場きゅりあん(品川区立総合区民会館 5F) 第1講習室
参加費会員 1,000円 / 一般 1,200円
参加費・資料代として、当日会場にて申し受けます。

江戸時代、徳川将軍は江戸の周辺農村で鷹狩りを行っていました。将軍自らが鷹を放ち、鶴や雉、鶉などの鳥を捕獲するのです。それは大勢の武士を引き連れた一大イベントであり、周辺農村の人々の生活にも大きな影響を与えるものでした。この講座では、将軍の鷹狩りがどのように行われていたのか、またそれが地域にどのような影響を与えていたのか、実際の史料を紐解きながら考えていきたいと思います。

講師 山﨑久登 略歴 /
1977年、世田谷区生まれ。成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得、博士(文学)。東京都立新島高等学校教諭。専門は、江戸周辺地域史。主要な論文に、「江戸周辺の地域編成と御三卿鷹場」(日本歴史学会編『日本歴史』第807号、吉川弘文館、2015年8月)、共著に、平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系一三巻 東京都の地名』(平凡社)、竹内誠編『東京の地名由来辞典』(東京堂出版)などがある。

参加者の皆様の声

日本文化塾の講演会では時々全く知らないことを教えてくれることがあり
楽しみにしているが、今回の若手第一人者による江戸鷹場の話もそのようなものであった。
江戸城から5~10里四方はドーナツ状に将軍の鷹場に指定され。
そこに住む農村民は行政面では旗本領、大名領、寺社領に重ねて鷹場役人の支配を受け、狩猟・漁猟や家の改築には厳しい制限があり、鷹狩りの獲物やえさの江戸運搬の夫役も課せられていた。
目黒や品川、中野など現在高層ビルの建ち並ぶ場所に2,3百年前に暮らしていた農村民は、江戸に隣接しているというだけで不自由な生活を強いられていたかと思うと、複雑な気持ちになった。
HO

当初演題に興味が無かったので、感心が薄かったのですが
山崎講師の熱心な講演に引き込まれて、メモもかなり取るほど興味深いお話でした。
「鷹場」など、現代日本人にはほとんど縁のない言葉ですが、江戸時代は権威の象徴であり、
また武士に限らず庶民の生活にも大きな影響があったとか、
システム維持のための「筋」「領」の区画があったとか、
現代にも言葉が残っているような面白い話が聞けて、とても楽しい教養講座でした。 HN

江戸時代の鷹狩りとはどのようなものだったのか、ご用意いただいた6枚のレジュメの目を通しながら興味深く伺った
お話の冒頭は何と、「目黒のさんま」でした。これが、落語の形成の過程にも一役かったとのこと。愉しくなりました。
何羽かの鷹が合同で大きな鶴にも襲いかかる狩りの様子、飼育している鷹のえさには犬の肉が使われたこと、
広大な狩り場の地域に暮らす庶民にはさまざまな負担が課せられたこと、等々が筆者には初耳でした。
食物連鎖の頂点に立つ鷹、その鷹狩りは徳川家康のもとで統制され、家光の時に基礎固めと整備がなされた。
犬公方綱吉の時に発せられた生類憐れみの令は戌肉を使用していた事実から廃止となり、
当時飼われていた鷹は、何と、講師が現在奉職されている新島の地に放たれたとのこと。
その遍歴を辿りながら、新島に飛び交う精悍な鷹をこの目で見たくなるような、 山崎先生によるわかりやすいお話だったと感じています。MK

中目黒あたりで将軍が休憩し、食した献立が記された史料は、とても興味深く楽しかった。食べたものは、今と変わらない。
タケノコ堀を見物したりしながら狩りに向かう将軍の様子は、何度でも行きたくなることが容易に想像できるものだったが、
毎回準備する茶屋の人間などは、どんなに大変だっただろうか。団子を200本も焼かされたそうな・・・
また、鷹のえさとして、毎年オケラを樽いっぱいに捕まえてお城に届けるという負担もあったとか。
子供達が動員されたのだろうか・・・
将軍と人々との双方の目で見た鷹狩りの話、面白く聞いた。AS

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